雲仙普賢岳被災民家跡、発掘プロジェクト2016

雲仙普賢岳災害遺構検出事業/南島原市教育委員会

このプロジェクトは、1991年の大火砕流災害から25年を迎える本年、この地で起こった「火山噴火災害の記憶を後世に伝え、残す」ことを目的としたものである。 1990年の雲仙普賢岳噴火後の翌年、2度の大火砕流により「被災した民家跡」を南島原市教育委員会と合同で発掘調査し一般公開までを行う火山噴火災害の創造的復興事業である。

※この映像は、本プロジェクトの記録となるものであるが、その発掘状況をリアルタイムでネット配信する。

この静止画像が継続している場合は、配信されていません。
また天候状況により、配信しない場合があります。
(このプロジェクトのライブ配信は、月〜金曜日の午前9時過ぎから午後4時過ぎまでとし、2016年8月19日(金)までを予定)

「被災民家跡」発掘現場、2016年7月22日現在

Outline

概要

大火砕流で被災した民家跡は
土砂に埋もれながら
人間の目から消え去ろうとしている
この地上から消失し、埋没する運命にある
しかし、私たちは
「自然の驚異と人間生活が出会った場」を
見失ってはならない

このプロジェクトは、1991年の大火砕流災害から25年を迎える本年、この地で起こった「火山噴火災害の記憶を後世に伝え、残す」ことを目的としたものである。
1990年の雲仙普賢岳噴火後の翌年、2度(1991年6月3日、9月15日)の大火砕流により「被災した民家跡」(旧住所:長崎県南高来郡深江町戊1600番地)を南島原市教育委員会と合同で発掘調査し一般公開(2016年9月15日予定)までを行う火山噴火災害の創造的復興事業である。



私は、大火砕流後1992年8月より、現地と東京(自宅)を往還し被災地での定点観測によるフィールドワークを続けてきた。噴火後の自然と向き合い、身体を通して記憶の地層を掘り起こし、見ることの深さを問いかける「普賢岳プロジェクト」である。これは、自然の圧倒的なエネルギーと人間の営みの関わりを探る思索と行動と鎮魂のプロジェクトでもある。



この被災民家跡の発掘は2011年4月から5年間、一人で掘り進めてきたものであるが、今回の雲仙普賢岳「被災民家跡、発掘プロジェクト2016」は、美術のフィルターを通して「考古学の目」と「美術の目」を呼応させ、異分野がコラボレーションすることで生まれる、新たな空間の提示である。

2016年5月27日(金)
大浦一志(美術家)

※映像は、このプロジェクトの記録となるものであるが、その発掘状況をリアルタイムでネット配信することとした。すでに被災民家跡の発掘は5月27日からスタートしている。

協力
  • 南島原市(長崎県)
  • 国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所
  • 株式会社新栄建設
後援
  • 雲仙岳災害記念館
  • 道の駅「みずなし本陣ふかえ」
  • UDI確認検査株式会社
Web制作
  • 渡辺真太郎
  • 難波亮太

Concept

コンセプト:教育長への手紙

南島原市教育委員会
教育長
永田 良二 様

 先日は、貴重なお時間を頂きありがとうございました。
 また、私の想いを丁寧にお聞き下さり恐縮しております。

 このたびは、先日のお願いの件を補足する形でお手紙を差し上げました。拙文ではありますが、お目通し頂ければ幸いです。

 今回の貴委員会との合同の「被災民家跡・重層発掘プロジェクト」は、1990年の雲仙普賢岳噴火後の翌年1991年に、この地で起こった「火山災害の記憶を後世に伝え・残す」ことを目的とした計画です。 これは大火砕流災害から25年を迎える本年に、南島原市が行うべき必要不可欠な災害復興記念事業であると考えます。

 大火砕流から25年が経過した今、この25年を振返り「身近な過去を丁寧に見ること」が大切であるように思います。 人間の生活が自然の驚異により脅かされた被災現場を掘り起こし、私たちが日常使用していた残骸たちの痕跡を目の当たりにし「自然の中で人間が生活するとはどういうことか」を、この地域を含めた多くの人々が振返ることが重要であると考えます。 それはスピード化された現代社会において「足元(身近な過去)を見つめる」ことを、この時代は求められているように思うからです。

 この地の災害要因は、噴火後の大火砕流と土石流によるものですが、すでに水無川の下流域では土石流被害の遺構公園が造られ、上流域においては平成3年9月15日18時54分に発生した大火砕流により、付近の民家など153棟とともに全焼した旧大野木場小学校被災校舎が災害当時のまま保存され、災害の爪痕を今もまざまざと見せつけています。 しかし大火砕流により被災した民家跡というものは残されていないのが現状です。
 今回の計画は、二度(6月3日、9月15日)の『大火砕流で被災した民家跡』を25年が経過した今、発掘・調査を行い「その発掘状態を公開する」というものです。 現在、大火砕流で被災した民家跡は国土交通省の砂防指定地域内で、土砂に埋もれながら人間の目から消え去ろうとしています。 この地域の地上から消失し埋没する運命にあるということです。 しかし私たちは、この「自然の驚異と人間生活が出会った場」を見失ってはならないと考えます。
 この時代に起こった痛ましい出来事の痕跡に、今こそ改めて目を向けるべきではないでしょうか。 現代を生きる人間にとって「自然の驚異というものがどういうものであったのか」を身近な過去の事実(現実)を凝視し、感受する時間を持つ事が大切であるように思います。

 大火砕流で被災した民家跡を発掘し公開する意味は、『人間が自然の驚異と向き合った場を現代に照らし開き示す』ことです。 それは発掘された場所で、25年前の被災民家跡や日常生活で使用していた残骸物と向き合い「人間が自然の中で生きるとはどういうことか」に目覚め、そこが「自然の驚異と出会った人間の真実の場である」ことに気付くきっかけになると考えるからです。 これは24年間、噴火後の自然と向き合い定点観測を続ける中で育んだものです。
 アートの最大の力は、『現在、生きている人間に「生きる意味を考えさせるきっかけ」を与えること』ですが、この地の人々が自然の驚異と出会った場を発掘し、公開することで『人間とは何か』を美術の視点から問いかけたいと考えています。

 この計画は、文化財課の本多和典さんと7年前に思案したものです。 被災民家跡については、2011年4月から現在まで私一人で掘り進めてきていますが、今回の企画は、美術のフィルターを通して「考古学の目」と「美術の目」を呼応させ「地中に潜む時空間の真相を現代に蘇らせる」というコンセプトで、異分野がコラボレーションすることで生まれる、新たな発想による空間の提示ということになります。
 地中には縄文晩期の権現脇遺跡が埋もれ、太古の人々の生活が眠っています。 その上には噴火前、普通に日常生活を過ごされていた葉タバコ栽培農家(故横田実宅:深江町大野木場戊1600番地)が重なるように埋まり、住所までも消えようとしています。 この次元の異なる「二つの人間の生活の場(地面)」を同時に発掘し、往古から現代を喚起する「地中の縦の時間軸(悠久の時間と歴史)を出現させる」という試みです。

 そこには「自然と人間の歩みの歴史が刻まれた空間」が開示されることでしょう。

 私は多くの人たちに、その人間が歴史を積み重ねてきたことを感じとれる空間に入り、体感して欲しいと望んでいます。 そして、その発掘現場が人間にとって時間と空間を再認識できる場であることを共有したいと思います。 それは、「この地の人々の生活というものは、太古から自然の驚異(火山噴火)と共にあった」という事実確認をする場所でもあると思うからです。
 それを考古学と美術が融合する形で同時に開き(発掘し)公開することで、この地でしか出会うことのない『人間が自然の驚異と向き合う場』を創出したいと考えています。 これは、この地域でしか行うことが出来ないものであり、また25年が経過した今だからこそ出来る絶好の機会であると捉えています。 また、この機を逃してならないと考えます。
 この地の人々が被災民家跡や発掘された日常の残骸(遺物)を見ることは、過去の記憶を呼び覚ますことになり痛みを伴うものと推察します。 しかし、この地で起こった身近な過去の事実や現実を直視することに目を背けてはならないと思います。

 多くの人たちが発掘現場に立ち、過去の痛みと向き合い何かを感じ考える時間を持つことが、現在の私たちに課せられた試練ではないでしょうか。 「過去の教訓を実感し、未来につなぐ何かを感じとること」これが、普賢岳からの問いでもあるように思います。 私は一つ一つの残骸から、このことに喚起させられたように思います。

 先日もお話ししたように、この地が「人間にとって重要な場所(地域)である」ことを強く感じています。 また、この地の重要さを開き示すことが、私に課せられた宿命ではないかと自覚しています。 それ故、この地域の人々と協同し主体的に関わり被災した民家跡を発掘し、この時代に起こった出来事をつぶさに検証し後世に伝える努力を惜しまず邁進する覚悟です。

 この被災民家跡・縄文晩期跡の同時発掘の公開が実現すれば、日本で唯一のものとなり島原半島ジオパークのメインの場となる可能性も秘めています。
 そして、この災害復興記念事業は「火山災害の記憶を後世に伝え・残すこと」を目的とし、日本列島が抱える「自然災害と人間の関係」をテーマとしているため、島原地域にとどまらず災害後の被災地活用(創造的復興事業)の先攻例として日本全国に発信する責務があると考えます。

 最後になりましたが、先日お願い致しました文化財課より提出された「発掘調査予算申請」を何とか通して下さるよう、市長に進言して頂きたいと切に願っています。

 どうか良き計らいをお願い致します。

 駄文となりましたが、ご容赦ください。

 寒さ厳しき折、お体ご自愛ください。

2016年2月2日(火)
武蔵野美術大学 共通絵画研究室
大浦一志

 ここからは、私の芸術観と普賢岳との関わりについて参考までに記します。


●日本人の自然観・時代が生み出すアート


 アート作品は、いま この世界に「生きることのリアリティー」をつかまえようとする独創的な作品でなければならない…。と考えます。

 21世紀を迎えた現在、地球上において異常気象・大地震・火山噴火が頻繁に起こり、日本においては2011年の3・11(東日本大震災)を筆頭に自然が猛威を振るう時代に入って来たように思えます。 大自然の脅威は、これまで以上に人類に対して深刻な状況を突きつけています。 そして人間は、もはや自然現象の脅威と切り離して考えることができなくなった時代に直面しているといえます。 これは同時に人間を中心とした時代が終わりを告げているということなのでしょう。 その意味からもアートが大自然の脅威(ダイナミズム)にのみ込まれ、アートが果たすべき役割を見失った真空の状態が現代ではないかと推察します。

 話しは100年程前に遡りますが、日本人のことです。
 …「宮沢賢治が生まれた1896年と亡くなった1933年、三陸を地震と大津波が襲った。災害に挟まれた賢治の一生と言える。疲弊した東北や力なき宗教、情熱なき芸術、冷たい科学。 そうしたものを憂慮し、どう脱却するのか模索した果てに書かれた作品群だと気付いた」。… と宗教学者の山折哲夫氏が、あの3・11で気付かなかった賢治の世界の発見を語り、翌年2012年3月20日に「語る・聞く・沈黙する」と題して、東日本大震災を契機に考えた日本人と自然の関係の重要性を論じています。
 …震災から1ヶ月後、仙台市から宮城県気仙沼市まで北上した。荒れ果てた光景に言葉はなかった。ただ空は晴れ渡り、海はないでいた。がれきのかなたに静かな山並みが続いていた。穏やかな自然が眼前にあった。 その時、日本列島に住むわれわれは、この二面性とずっと付き合って来たことに思い至った。自然は凶暴な牙をむくが、最終的にはその美しさ、優しさに救われるのではないか。… と語っています。

 以上は、宗教学者が発した言葉ですが、彼が語る「自然が持つ凶暴さと美しさ(優しさ)の二面性」が日本人の自然観であり日本人と自然の関係であるように思われます。 私はこの「凶暴さと美しさ(優しさ)」の二面性を普賢岳の地で実感しています。 この二面性と付き合って来たのが日本列島に住むわたしたちです。そのDNAを一人ひとりの心奥に秘めているということです。

 美という観点から言えば、太古から続く災害列島に住む日本人は、自然災害と戦いながら自然が持つ「凶暴さ」と「美しさ(優しさ)」を繰り返し感受し「救われてきた」のです。 その結果、寛容なる精神を持って美しさ(美というもの)を捉える能力を会得してきたように思います。 これこそが日本人が誇るべき美意識であり、自然の美を解釈する上で根幹に据えるべき自然観ではないかと考えます。  日本人は、太古から続く自然災害を幾度となく乗り越え「寛容の精神」を宿しています。 そういう意味で島原地域の人々の奥底にも「自然の驚異を抱え込む寛容の精神」が脈々と流れているということです。 この自然から学んだ寛容の精神を手がかりに、現代における美を読み解くことができるのではないか…
 これが、私が雲仙普賢岳の噴火後、自然と関わる意味であり美術観です。



●私の現実(リアリティー)


 私は、今のところ人間界ではなく自然界に眼を向け、原初に近い噴火後の自然に身を置くことで、この世界に「生きることのリアリティー」をつかまえることができるのではないかと定点観測の活動を続けています。 しかしながら24年が経過する今も、自然のダイナミズムに圧倒されているのが現状です。 これだけの時間をかけ寄り添い近づいても、いつも自然の入口までの時間と空間に触れるだけで自然の深淵を突きつけられるだけです。 これが私の現実(リアリティー)です。

 「リアリティー」の意味は、現実感、真実性、迫真性のことですが、アーティストは「この世界に生きることの現実感、真実性、迫真性」をつかまえることを宿命づけられた存在であると自覚しています。 しかしながら私の中で、まだ身体化されていないのが実情です。 唯一いえることがあるとすれば、自然は真理を黙って実行しているように思われます。 その意味で、真理を黙って実行する自然の法則に学び『黙って実行する』という日々を重ねて行く覚悟です。



●原点に戻って


 最後に、定点観測を始めた1992年8月の原点に立ち返り考えてみようと思います。
 都市生活者を再認識し、都市と大自然が変容する様や距離における関係を丁寧に見ることで「個人の視覚」を問い直してみたいと考えています。
 私の行為や思考は大自然の中では、ほんの一瞬の時間にすぎず、私の存在は自然の中の点にも満たない。 しかし対象と深く関わり一体となる時間を持ち、目の前の事実の確認作業を続けて行こうと思います。 「見る」ということは長い時間を要することですが、「記憶の地層を掘り起こし、見ることの深さを問う仕事」を黙って淡々と進めます。 これが、私の晩年に課せられた命題です。

2016年2月2日(火)
大浦一志

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E-mail : ooura@aioros.ocn.ne.jp

Profile

プロフィール

大浦一志

1990年11月の雲仙普賢岳噴火後、東京(自宅)と現地(長崎県南島原市)を往還し自然と人間の関係を見つめる。

'92年8月より、現地において定点観測によるフィールドワークを続け風化が進み再生に向かう環境の中、身体を通して噴火後の自然を実感する「普賢岳プロジェクト」を進行中。2016年6月で44回を数える。
現在、武蔵野美術大学教授。

主な展覧会/'98年「第27回現代日本美術展」東京都美術館・京都市美術館(招待作家)、'99年「自然を読む…アナタノ自然ハドコニアル…」埼玉県立近代美術館、'01年「毎日モダンアートオークション2001」ラフォーレミュージアム六本木・出品作品展、'05年「第39回造本装幀コンクール展」東京国際展示場、'12年「MOMASコレクションⅣ アーティスト・プロジェクト 大浦一志:自然と人間 雲仙普賢岳との20年」埼玉県立近代美術館。
受賞歴/'92年「第21回現代日本美術展」佳作賞・世田谷美術館賞、'94年「第23回現代日本美術展」北海道立帯広美術館賞、'94年「第5回TAMON賞」優秀賞、'95年「第24回現代日本美術展」佳作賞・埼玉県立近代美術館賞、'97年「第26回現代日本美術展」毎日現代美術大賞、'05年「第39回造本装幀コンクール展」日本印刷産業連合会会長賞。
パブリックコレクション/世田谷美術館、北海道立帯広美術館、埼玉県立近代美術館。